歴史探訪3                        秋田藩佐竹氏の江戸屋敷跡を訪ねて

常陸の国の大名佐竹義宣(52万石)は徳川家康から突然国替えを命じられ、秋田に来たのは慶長2年 (1602年)のことである。丁度江戸幕府ができた年で、関が原の戦いに協力しなかたということでの左遷である。今年は秋田入部400年、江戸開府も同じである。しかし、妻子は江戸住まいという家康の政策で各大名は江戸屋敷を置くことになる。

江戸屋敷には上・中・下屋敷があるが、これは幕府から割り当てられた土地である。力のある大名は「抱え屋敷」という私有の土地も確保していたようである。今回、佐竹氏の上屋敷、抱え屋敷跡や関係の寺社を訪ねることにした。これは5月末のある日、秋田の田舎者が右往左往しながら訪ね歩いた記録である。


1.佐竹抱え屋敷跡・佐竹稲荷(足立区梅田6丁目)

まず訪れたのは佐竹氏の「抱え屋敷跡」である。現在ここには当時の屋敷の北東隅に佐竹氏の屋敷神として祀られた佐竹稲荷神社が残っている。抱え屋敷の広さは訳く5200坪と言われている。東武伊勢崎線の梅島で下車して徒歩で10分くらいの所にある小さい神社であるが、近くの交番でも分からず探すのに苦労した。しかし、毎年2月の初牛の祭礼には参拝者が多いと言う(イボに利く稲荷として有名とか)。佐竹氏はこの場所を火災の避難場所や参勤交代の休憩場所に使ったと言われる。屋敷の東側を奥州街道(日光街道)が通り便利な場所だったようだ。現在は民家や小さい商店が立ち並んでいる。佐竹稲荷は裏通りにひっそりと建っていた。




   佐竹氏抱え屋敷跡石碑       佐竹稲荷神社      佐竹氏の抱え屋敷地図(佐竹右京大夫)



2.佐竹氏の江戸の菩提寺、総泉寺跡(台東区橋場2丁目) *平賀源内墓

総泉寺の歴史は古く、創建は建仁元(1201)年2月とされ、開基は千葉介(具体名は不明)と伝わっているが、下総の国千葉氏の一族らしい。佐竹義宣はなぜここを菩提寺にしたか不明であるが、かなり名の知れた寺院であったようだ。現在の総泉寺は昭和2年板橋区小豆沢に移されている。今回は元あった総泉寺跡を訪ねることにした。そこには「平賀源内」の墓が残っていると聞いたからである。

南千住駅から泪橋を通り、歩くこと15分東京ガスの反対側の裏手に総泉寺跡があった。というより「平賀源内墓」だけがここに残されていた。これは現在国史跡に指定されている。土、日曜以外は門が閉じられ入ることができない。平賀源内は江戸の本草学者、、科学者、戯作者、画家、発明家、鉱山開発者等々、その才能、行動、発想、すべてが型破りで知られたユニークな人間である。彼は誤って人を殺害し獄死してしまう。そこで葬られたのがこの総泉寺だったわけである。なぜこの寺にお墓が作られたのか。これは佐竹氏と関係あるのではないかとにらんでいる。

源内は安永2年(1773年)、佐竹氏の招聘により、秋田・佐竹藩の、院内銀山、阿仁鉱山へ赴いて、鉱山開発の指導をしている。そのとき、鉱山方役人、小田野直武と出会いその画才を認め、直武に遠近法や陰影の付け方など西洋画の基本を伝授している。当時の秋田藩主佐竹義敦もこの画法に興味を示し、秋田の画家達が影響を受けたと言われ、「秋田蘭画」として知られている。このように彼と秋田の関係から佐竹氏の菩提寺の総泉寺に葬られたのではないかと推察している。(義敦は雅号が曙山という秋田蘭画の優れた画家でありその作品も残っている。)

なお、小田野直武は江戸勤務になり源内の下で絵画の修行をし、その間、日本最初の西洋解剖書の訳本である「解体新書」の付図の下絵(イラスト)を描いている。帰郷後直武は佐竹義教の小姓にに抜擢され再び江戸に上るが、ほどなく義敦に謹慎を命じられ(理由不明)角館に帰りその翌年死去している。しかし、秋田蘭画の著名な画家として後世にまで名を知られ優れた作品を遺している。

佐竹氏の妻子はここに葬られたが、板橋の総泉寺に合葬墓として移され、さらに5年前に佐竹氏の秋田の菩提寺である天徳寺に移されたとのことである。それにしても何故源内の墓だけが元の総泉寺跡に残されたのだろうか。門の前でしばし考えながら佇んでいたが、この通りには人影は見られず静寂そのものであった。


             総泉寺跡          平賀源内墓


3.佐竹氏上屋敷跡。{台東区台東3丁目)

ここは2年前訪れているので再度の訪問である。大江戸線新御徒町駅から歩いて5分のところにある。佐竹氏の上屋敷は元は神田にあったが、大火でここに移ってきたと言われている。現在「佐竹商店街」というアーケードのある店が立ち並んでいる。ここは明治維新で佐竹氏がこの地を離れてから野原となり、「佐竹っ原」と呼ばれ、見世物小屋が集中して賑わったがやがて民家が建ち並び「竹町」と呼ばれ現在の街を作るもとになったようである。

佐竹氏の頃は上屋敷の面積も広く現在の台東3・4丁目東半分を占めており、下谷七軒町と呼ばれていたようである。三味線の形をした堀があり、三味線堀と呼ばれ、そこから見える佐竹の武家屋敷や蔵屋敷は壮観であったと言われる。外様とはいえ徳川家より歴史が古く、さらに徳川家のに対する心配りも怠りがなかったらしく、一目置かれていたことがこの上屋敷の広さから伺うことができるし、下の武家屋敷の絵からも想像できる。

          佐竹氏上屋敷地図       佐竹商店街    佐竹武家屋敷(前は三味線堀)


4.正洞院(佐竹義宣妻を祀る寺院){台東区下谷2丁目)

正洞院は秋田藩初代佐竹義宣の正室である。彼女は24歳で亡くなり、亡骸は常陸太田の耕山寺に葬られたが。義宣はその供養のために江戸に正洞院を建立(1601年)、さらに秋田入部の後は現在の秋田市の手形にも正洞院を設けている。江戸の正洞院は現在の下谷に現存している。日比谷線入谷駅を降りて直ぐの所の立派な門構えのお寺である。門を入っていくと当主が水巻をしており、秋田から来たというので歓迎してくれた。

現在は曹洞宗の寺院でありお墓が100ほどあった。秋田の佐竹とは関係のないお寺になってしまったようであるが供養塔が建っていた。塀に「牛馬諸車置く事堅くお断り」と書かれていたが、これは江戸時代から伝わる貼り札の内容で、この寺が如何に由緒ある寺であるかの証拠であると当主は自慢げに話をしていた。東京のど真ん中に未だ「牛馬・・・」とは恐れいったが、その時代錯誤にユーモアを感じてしまった。

義宣の妻、正洞院の死は謎に包まれ自死の説が有力であるが、何故義宣が秋田と、江戸に二つの寺を建て手厚く弔ったのかにそれを解くカギがあるといわれている。正洞院の兄、那須資晴は関が原の戦いで徳川方について大名に取り立てられたが、、義宣は曖昧な態度をとり秋田に左遷。そのため。正洞院は「実家と嫁ぎ先の板ばさみにあって自刃したか、秀吉へ配慮した義宣の命で殺害されたのではないか」と秋田の郷土史家、伊藤武美氏は推察している。いずれにしても正洞院の死は武家社会の渦に巻き込まれ犠牲になったとも考えられ哀れである。義宣の胸中にも晴れない何かがあったのだろう。

           正洞院正門        正洞院供養塔          塀の張り札



5神田上屋敷跡(千代田区内神田3丁目)

JR神田駅西口を降りて直ぐの所に神田西口商店街がある。そこを歩いていく途中に小さな神社を見つけることができる。これが佐竹稲荷神社であるが誰も振り向こうとしない。神社の前に自転車が捨てられていた。ましてこの土地一帯が佐竹氏の上屋敷であったことは地元以外は知る人はわずかである。神田明神は有名であるが神田の佐竹稲荷も知る人ぞ知るのみである。神社の正面には佐竹氏の家紋を染め抜いた垂れ幕が下げられている。神社そのものは由緒あるものでなく、後の人が佐竹氏を記念して建てたものであろう。

この上屋敷は天和3年(1682年)の大火で建物の殆どが焼失し、下谷七軒町に移ってしまったのである。この天和の大火は別名「八百屋お七」の大火と言われているので有名である。しかし、実際はお七はこの大火と関係なく、大火の際に、檀家寺の円乗寺に一家が避難。そこで出会った小姓生田庄之助に恋心を抱き、翌年3月自分の家に放火。未遂に終わるが放火犯として鈴ケ森で火刑に処されたのではないかといわれている。

現在、この神田西口商店街と佐竹南家のあった秋田県湯沢市{小生の郷土)の商店会は佐竹氏が縁で交流があり、毎年七夕の頃に湯沢市の伝統行事である「七夕絵灯篭祭り」の灯篭が西口商店街に飾られ賑わいを見せている。神田商店街のHPはhttp://www.iki-kanda.or.jp/である。それによると今年は7月4・5日に絵灯篭が飾られるようである。

        神田西口商店街           神田佐竹稲荷神社(1)      神田佐竹稲荷神社(2)


あとがき

 最初の訪問地、足立区梅田の佐竹稲荷を探すために東武伊勢崎線の梅島の駅に着いたのが午前11時。最後の神田の佐竹稲荷の訪問を終えたのが午後4時。5時間の電車を乗り継ぎ道を迷いながらの歴史探訪であった。途中聞いても知っている人は稀であった。実際歩いた距離は歩数計によると、24026歩、14.41キロであった。行き残したのは日暮里抱屋敷跡にある向陵稲荷神社(開成中・高校の近く)、浅草下屋敷跡、向柳中屋敷跡などである。疲労困憊のため、他日を期して帰りの途についた。

*冒頭の「佐竹大名屋敷跡略図」は秋田魁新聞連載の「時の旅−佐竹氏入部四百年」、また江戸の地図は「嘉永慶應の江戸切絵図」(人文社)による。



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