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佐竹氏の秋田入部400年目を迎えて

佐竹氏が秋田に来て今年で丁度400年になる。慶長7年(1602年)関が原の戦後の論功行賞により、常陸国(現茨城県)からの秋田入部である。戦国時代末期、全国6大名 に列せられていた佐竹54万石は結果的に20万石に減じられた左遷である。関が原で動かず、豊臣方の石田三成や、会津の上杉景勝との関係を疑われたと言われているが、家康のしたたかな計算もあったものと思われる。

しかし、減封されたとはいえ、秋田は想像したよりも豊饒の土地であった。秋田藩初代、佐竹義宣が秋田に来る途中、峻厳な院内峠を越えて現在の湯沢市関口に差し掛かったとき、広大な横手盆地の美田を見て機嫌を直したと伝えられ、今でも「御機嫌坂」の地名として残されている。

以後12代、260年にわたり秋田藩を治め、現在の秋田を作ったことは確かである。米と杉と鉱山資源をもとに、佐竹氏は藩政を維持し秋田独自の文化も築き上げている。


昨年、佐竹氏の秋田に来る前の本拠地であった茨城県常陸太田市、江戸の上屋敷のあった浅草を訪れる機会があった。

常陸太田市では旧家臣を先祖にもつ末裔の人たちがグループをつくりそのルーツを探るために努力しているようである。常陸国を統一した戦国大名佐竹氏代々の祈願所である佐竹寺に立ち寄った。寛和元年(985年)花山天皇の命により元密上人が創建したといわれ、坂東33観音霊場第22番札所として信仰されており、。本堂は、正面の火頭窓や柱、海老虹梁など桃山時代の建築様式を色濃く残しており、明治39年に本堂が国指定重要文化財となっている。しかし、扉は閉まっており不思議に思っていると、ちょうどお寺の檀家の方が来ており、その人の話によると、本尊を寺の和尚さんが売却してしまったので開かずになっていると憤慨して話してくれた。歴史を残そうとする人がいる反面、無理解な人もいるのは何処も同じである実感したしだいである。

佐竹の江戸屋敷跡もだいだい見当をつけて行ったのであるが、道に迷いたまたま鳥越神社(台東区鳥越2丁目)の側を通ったので、神社に行き宮司から、近くに佐竹商店街という所があり、そこが関係あるらしいという情報をいただき、ようやくたどり着いた。商店街はアーケードに囲まれたこじんまりとした下町の情緒溢れる商店が立ち並んでいた。商店街の会長、事務長さんにお会いでき、間違いなく佐竹氏の上屋敷跡であることが分かった。商店街のホームページ(http://www.tctv.ne.jp/satake/)もあり、そこに江戸時代の様子も載せられていた。

常陸太田といい、この佐竹商店街といい佐竹氏に寄せる思いがひしひしと伝わってきて、かえって秋田のほうが関心が薄いように思えた。秋田においては佐竹の家臣の方たちはグループをもち結束が強いが、家臣であるというプライドが高く他を寄せ付けない雰囲気があると言われている。

入部400年の記念行事も開催されると聞いている。一部の人の行事ではなく、これを機会に佐竹氏を中心とした秋田の歴史に興味をもち、今後の秋田を考える糧としたいものである。(1月10日記)


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