詩のささげもの 宗左近著 新潮社 2002/7 第2刷
詩人、宗左近、82才。この本はあとがきで述べているように、彼がその人生の中で出会った沢山の詩歌を紹介しながら(紹介作品600編)、 その魅惑を語り、それ自体が彼自身の自伝になっている著書である。
詩の鑑賞はさておき、この本を読んでまず感じたのは、宗左近が、昭和20年の東京空襲の火炎の中で母と別れ離れになり死なせたことを自分の責任と感じ、常にそれを負い目に「自分の罪」として生きてきたことが彼の詩の原点にあるということである。自分が被害者でなく加害者であるという彼の意識はずしりと胸に響く。彼はその思いを「炎える母」という詩集を出し「サヨウナラを サヨウナラヲ」と母に対する鎮魂歌をうたいあげるのである。
そして、戦後、知識人をはじめ、宗教者たちが加害者としての自己批判がなかったという彼の鋭い指摘は、戦争責任の問題としても考えさせられる。さらに、大木敦夫、三好達治、高村光太郎、萩原朔太郎などの戦争中に書いた詩、所謂「戦争詩」は醜悪であると切り捨てるのもうなずける。
これだけだと、宗左近は硬直したイデオロギーの持ち主のように見えるがそうではない。他と妥協しない一本筋が通っていることは確かであるが、ある時には彼は縄文の深鉢土器を見て感動し、縄文の凄まじい超時空のエネルギーの別名こそ詩であるといい、ある時には、3歳の幼児の詩から、生への、さらにその生の場になっている宇宙への賛歌であると感動するのである。詩人というのは鋭い感性でその事象を読み取り、感動できる人間であるとこの著書を読みながら感じた次第である。
とにかく、紹介されている、様々な詩、短歌、俳句が多く、その解釈の仕方が私のような素人にも分かやすく説明さていて大変参考になる。例えば、八木重吉の冬という一行詩 木に眼が生って人を見てゐるをどう解釈したらよいだろうか。木の眼とは何かということである。「あなたのそばの生き物がもっている、あの生き生きとした全宇宙を映しとってしまう「眼」を見なければいけない。そしてそれが木に生っているのを見ればいい」と言っている。この説明の中から、この詩の中に自然の存在の大きさを感じてしまうのである。
最後に彼は宮沢賢治の詩を通じて、前世、現生、来世の輪廻転生を見出し、神の存在を信じるようになったという。つまり、「透けて明るく光っているもの、それは透明光体。別名魂。それの原体が、神さま。それの分体が、人や花など。それらの巨と微の多くの透明体の創っているのが宇宙。その宇宙の生む音響と映像の有機体が詩。」という結論に達するのである。
いつまでも自己を厳しく見つめ、自然や社会に対峙しながら、物事を宇宙的に眺め、その中に神の存在を肯定する宗左近の思想は、浅学非才の身ゆえ十分に読み取れないきらいがあったが、「この本は神さま、死者への祈りの歌である」という意図は理解できた。優れた詩人の精神はいつまでも若々しく、その文章も瑞々しい。だから、戦争を経ての80年の人生で書き留めた詩、短歌、俳句の花束は我々の琴線に触れるのである。
さらに最後ここに紹介された600編の詩歌の中で一番心に残ったものをあげなさいと言われたら。次の詩をあげる。これはこの本を読ませていただいたお礼、お世辞ではない。
サヨウナラよサヨウナラヲ 宗左近
見えている炎の海はたちさったけれど
見えない炎の海があふれかえっているのだから
炎えつづけて炎えやまい母だから
炎されつづけて炎されやまないわたしだから
この炎えている炎えあがってくる白い現に
サヨウナラはないサヨウナラとはいえない
のびあがり
身をよじり
ひるがえり
うねり
くねり
ねじれ
まがり
波だち
たぎり
湧きたち
炎えつづけて青く炎えやまない母だから
焦げつづけて赤くこげやまないわたしのなかの母だから
サヨウナラはいいえないサヨウナラはない
うめき
うなり
さけび
泡をふき
くいちぎり
くるめき
歯がみし
あえぎ
もだえ
波うち
見ている炎の海はたちさったけれど
見みえない炎の海があふれかえっているのだから
サヨウナラはないサヨウナラとはいえない
ああ炎えあがり炎えあがりつづける母だから
わたしのまるごと垂直に宙に吸いあげられてゆきかねない
この白すぎる朝を焼きおとすために
この光すぎる中空を煙らせるために
サヨウナラはいわないサヨウナラはいいえない
わたしは炎されつづけてゆかなければならないのだから
サヨウナラぐるみ炎していったもののためにわたしは
サヨウナラぐるみ炎されつづけていかなけばならないのだから
懐かしい母の乳房の匂いのする
サヨウナラはないサヨウナラよサヨウナラ
幼い日の夕焼けの染めている
サヨウナラはないサヨウナラよサヨウナラ
一口メモ
今年になって出かけた三沢紀行の寺山修司の短歌が紹介されている。この歌人の詩は優しいのに剛直。優しいのに柔軟という評価をしている。寺山の作品には「詩は故郷の記憶」(オクタヴィオ・パスのことば)とい士俗性と始原性があるという。これは日本しか生まれなかった日本人の叙情であるともいう。寺山を解釈する新しい視点を教えられた。